上ノ池北の暗渠
農業用水が不足しているということで、宝永4年、多摩郡六ヵ村分水が許可されました。
この用水は、いくつもの分水口をもち、桃園川流域などの田圃を潤していました。
千川上水が青梅街道に交わる出店という場所から分水し、善福寺池の北を走り抜ける水路でした。
尽力したひとびとの名前をとって、途中までを半兵衛堀、以降は相澤堀とも呼ばれました。
荻窪駅前付近のこの水路は、井伏鱒二の「荻窪風土記」にも登場します。
井伏はとても汚いと書いていますが、時代や場所によって、証言はさまざまに異なります。
素掘りのため、川幅や形状はまちまちだったそうです。
いろいろな生きものが棲んでいたようです。
さてこの六ヵ村分水は、青梅街道にしばらく沿って流れるのみです。
しかし、この上池近辺には、いくつかの暗渠があります。
この暗渠たちは、なにものなのでしょうか?
そのむかし、昭和30年頃に、善福寺池の湧水が突然止まってしまいました。
このとき、千川上水から地下に導水管を通し、上池に注水したといわれます。
つまり、最初から暗渠の水路が、六ヵ村分水の途中から分岐し、道路の下を通ってやってきていました。
その後千川上水が枯渇してきたことから、善福寺池の水源は現在のような井戸水に変わっています。
ほかに、このあたりには、始点が不明の、善福寺池に注ぐ暗渠が3本ありますね。
この3本の水路は、謎に包まれています。
むかし、池の周辺には、何か所も湧水があった、といわれています。
また、池の周辺は水田として利用された、ともいわれます。
つまり、湧水が上池に流れ込むための水路かもしれないし、
上池の北にあった田圃の用水路もしくは悪水路かもしれない。
あるいは、この付近のなにものかの排水路かもしれない。
はっきりとした文献がみつからないので、謎ではありますが、
それがまた好奇心を掻き立てる暗渠群でもあります。