豊島氏と太田道灌 〜消えた善福寺 西荻歴史観光03

豊島氏と太田道灌 〜消えた善福寺 西荻歴史観光03

豊島氏と太田道灌 西荻歴史観光03

 室町時代の1477(文明9)年、江戸城の太田道灌は、所領を盤石とするため、近隣の豊島兄弟を除こうとしました。弟泰明(北区中里の平塚城とも、豊島園付近の練馬城ともいわれます)を攻めるも撤退、泰明は石神井城の兄泰経へ加勢を頼み、泰経が出城。これを知った道灌は江古田原で迎えうち、泰明を捕えます。勢いに乗った道灌は石神井城を攻め、泰経は逃亡し行方不明、豊島氏は滅びました。その際、西荻北の城山(西荻図書館の西)に道灌が宿陣したとも、豊島氏の砦があったともいわれます。
 当時、善福寺池のほとりに善福寺と万福寺という二つの寺があったそうですが、実際の場所は現在もわかっていません。大地震で池水が押し寄せ堂宇を破壊、そのまま廃寺となった(新編武蔵風土記稿)という記録、また豊島氏の菩提寺だったため道灌に焼かれたという説もあります。真実はわかりません。池の東に「善福寺城」という豊島氏の砦があったという説もあります。

善福寺

消えた善福寺 西荻歴史観光03

 地名の「善福寺」は、池の畔にあったと伝わるお寺の名に由来しています。現在、善福寺四丁目にある「福寿山善福寺」は、福寿庵という名前のお寺が、昭和に入ってから善福寺と改名したもので、大昔の善福寺との直接の関係があるかどうかはわかりません。ただ、このお寺のご本尊・阿弥陀如来像は室町時代の作といわれます。もしかしたら大昔の善福寺のものなのかもしれませんね。

道灌槇(荻窪八幡神社)

荻窪八幡神社

 荻窪八幡神社境内にある高野槇の大木。太田道灌が石神井城攻略の際に、この地に立ち寄り、戦勝祈願をしました。その際に、「源頼朝の手植えの松」の故事(西荻歴史観光02参照)にならって、この槇を植えたという伝説が残っています。これほどの巨木の槇は都内でもめずらしいのだそうです。この高野槇は500年の間、西荻の変化を見下ろしています。

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本記事を書くにあたり、おなじみ『杉並風土記』や『杉並区史』などの参考文献にあたったのですが、決定的に詳しいのは日本城郭学会の学会誌「城郭史研究」の2011年31号に掲載された論文「石神井城・練馬城、太田氏と豊嶋氏の合戦について」(長島貴)です。この本は西荻図書館に入っているのでぜひ読んでほしいです。これによると旧字名「二ツ塚」(←中央線ガードに名を残します)や「三ツ塚」(←西荻窪駅がある付近)も、このときの戦死者の墓だったのではないか、などなど、地名考察が興味深いのです。そしてなんといっても「城山」の謎。森泰樹『杉並風土記』によると、城山と呼ばれるようになったきっかけは「源頼義が宿陣したから」。さらに500年さかのぼります。「西荻歴史観光」の本文では、「太田道灌が宿陣したかも」と「豊島氏の砦だったかも」を併記してあっさり触れただけにとどめました。

この「城郭史研究」掲載論文の焦点は城山なのです。「勘解由左衛門尉(泰経)要害」と「道灌状」に記された場所こそが、現在、城山と推定されている場所なのではないか、ということが詳しく考察されていて、これによるとまさに西荻北・上荻一帯が戦場だった、ということになります。

同著者『杉並の伝説と方言』にも面白いことが書いてあって、兄泰経は弟が捕まるよりも前に、太田道灌が放った刺客によって路上で暗殺されたという伝説を紹介(上井草の道灌の切通し)。

また、同著者『杉並区史探訪』も豊島合戦についてはかなりくわしいです。いろいろと読み比べながら、けっきょくなにが起こったのか、自分なりに考察しつつ、西荻〜上井草あたりのまち歩きを味わってみてはいかがでしょうか。

(イラスト=さくらいようへい)

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