今川家代々 〜 西荻歴史観光04

今川家代々 西荻歴史観光04

今川家代々 西荻歴史観光04

 戦国大名として名を馳せた三河・駿河の今川氏。桶狭間の戦いで信長と戦った今川義元は特に有名です。その嫡男・氏真(うじざね)の時に、戦国大名としての今川家は領地を失いますが、氏真は転々としたのち、徳川家の庇護を受けていました。今川家が得意としていた公家文化の教養が必要とされたのです。氏真の孫の直房からは高家旗本となって、将軍の代参で日光や京都(朝廷)や伊勢神宮に行くなど、格の高い職務を任せられることとなります。そのために武蔵国多摩郡井草村ほか計500石を、三代将軍家光から与えられます。代参使行列の頭数が揃わず、支配地の農民を下級武士扱いとしてお供に加えるなどしてやりくりしていました。
 井草村は現在の善福寺、西荻北三〜五丁目、今川、桃井などを含みます。歴代の領主が住んだわけではありませんが、菩提寺の観泉寺は知行地の拠点として、年貢の徴収や裁判まで行っていました。
 代参使は格式の高い名誉な仕事でしたが、費用がかかるため、領民は年貢に苦しんだようです。以後今川家は、幕末まで200年以上にわたってこの地を支配します。
 現在の「杉並区今川」はこの今川家の名に由来します。

今川氏累代墓

今川家代々  西荻歴史観光04

 観泉寺の墓地にあります。十三代の今川直房を観泉寺の開基として、牛込から移された十二代氏真の墓とともに、最後の当主・二十三代範叙(のりのぶ)に至るまでの墓が安置され、今もていねいに管理されています。物いわぬ苔むした墓石が並ぶ墓所は、東京都の旧跡に指定されています。

観泉寺

 1645(正保2)年、今川直房が、姉とゆかりのあった下井草の観音寺の名を「観泉寺」とあらため、現在の場所に移して菩提寺にしました。幕府から寺領として十石の朱印状が下付されています。境内にあるしだれ桜は春の風物詩となっています。

三味線師匠がつくったという猫供養塔

 敷地周辺には、昭和50年代まで地蔵坂(寺分坂)のところにあった地蔵堂の地蔵や庚申塔、馬頭観音などをはじめとして、三味線の師匠が建立したといわれている猫供養塔など、地域の人の信仰を失った石仏などが移され、安置されています。

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『西荻観光手帖』の刊行当時(2014年ころ)、この記事を見た商店会長(故人)から面白い話を聞きました。今川エリアのまちおこし企画で「代参使行列」をやろうというアイデアがあったのだが、地域の方に受け入れられず、お蔵入りになったことがあるとのこと。その最大の理由はここを読めばわかる通り、「先祖が年貢で苦しんだから」。もう150年は前の話になるのですが、年配の地主さんの中には、自分の祖父祖母から重い年貢の話を直接聞いたことがある方がいたのかもしれません。

この重い年貢に耐えるところから、勤勉と忍耐に耐える気風の「井草魂」が培われた、と書いた書物があったはず。ちょっと今探し中。そのうち追記します。

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