有馬頼寧『花賣爺』
(西荻ブックカバーチャレンジ1)

有馬頼寧『花賣爺』

SNSで流行っているブックカバーチャレンジ、西荻の本を紹介していくのなら何が並ぶのだろう、と考えていました。最初に紹介するのは 有馬頼寧『花賣爺』 です。最近知ったのですが、この本には西荻窪にとってとっても重大なことが書いてあるのです。

※ブックカバーチャレンジとは、7日間連続で、1冊づつ本を紹介、ただし内容までは紹介しない、その際に友人もこれをやるように巻き込む、というルールでSNSで流行っています。なお、この記事では、厳密なルールには則らず、内容も書きます。あと、大変なので連続では紹介しません。あしからず。

有馬頼寧『花賣爺』

「西荻窪最大の謎」が書いてある本

もちろん個人の見解ですが、西荻窪最大の謎というのがあって、それは誰が「西荻窪」と名付けたのか、ということ。西荻窪は地名としては駅名よりあとになりますので、つまり駅名をつけたのは誰かということです。

両隣の荻窪駅と吉祥寺駅は、西荻窪駅が開業するより前からありました。それで、荻窪の西にあるから西荻窪、というのはまあ理屈ではわかるのですが、前々からちょっとヘンだなと思ってたんですよ。西荻窪の旧地名と神社の関係を解説した図(この記事を書いた時につくったもの)を参照します。

西荻窪 の 旧地名 と 神社

開業当時の西荻窪駅の立地は、井荻村大字上荻窪字三ッ塚となります。井荻村は発足したばかりで、若き内田秀五郎村長(善福寺公園の銅像の人)のもと、大規模な開発と整備が進められていました。それから考えると、内田が誘致した駅の名前は井荻駅となる予定だったのではないか、と考えるのが自然です。あるいは、合成地名「井荻」(井草+荻窪)の荻窪のほうにはすでに駅があるから、井草駅となる予定だった可能性もあります。でも、なぜそうならずに、あえて「西荻窪駅」になったのか。これがずっと疑問でした。

上の図をご覧になるとわかるとおり、駅の立地が旧村の境目付近にあるから、それぞれの旧村のメンツが立つように、あえてとなりの「荻窪」地名を使うという、井荻村関係者の心遣いがあったのでは、というのが当初の私の仮説。

もはや新資料が出てくることもあるまいと思っていたら、SNSでつながっている杉並区議会議員が「西荻窪と名付けたのは有馬頼寧伯爵」と言っているのを見かけてびっくり仰天。それで調べてみたら出てきたのが、すぎなみ学倶楽部の2019年12月に書かれたこちらの記事。

有馬頼寧さん|すぎなみ学倶楽部

駅名がなかなか決まらず、相談を受けた頼寧が東中野駅の命名にならって『西荻窪ではどうか』と答えたら、それで決まった」(上記記事より)とのこと。とりあえず原本をあたらねばなりますまい。さっそく取り寄せました。

有馬頼寧と西荻窪

その前に有馬頼寧(ありま・よりやす)という人のことをちょっと紹介しておきましょう。さらに詳しくは上の「すぎなみ学倶楽部」や、Wikipediaを見てください。

久留米藩有馬家の当主で伯爵(華族)。東京帝大で農学を学び、政治家となってから第一次近衛内閣で農林大臣。貧農救済や部落解放運動などを支援しながら、大政翼賛会の初代事務総長。そんなわけでA級戦犯で収監されるも無罪。戦後は競馬振興に尽力し有馬記念にその名を残します。上井草を拠点としたプロ野球チーム「東京セネタース」のオーナーでもありました。

参考:有馬豊氏と東京セネタース|さくらいようへいブログ

この有馬伯爵が、別邸として荻窪八幡神社の南側に広大な敷地を購入したのが関東大震災のちょっと前。実験農園をしたり、本邸のある浅草の人びとを招待したり、震災時には浅草周辺の人たちを避難させたりしていたようです。当時の西荻窪は、畑と林のひろがる農村、荻窪は別荘地として人気の場所でした。その後1928(昭和3)年秋からは、こちらに引っ越すことになります。

西荻窪駅ができたのは関東大震災の前年、1922(大正11)年。

「東中野から思いついて」

さて『花賣爺』は、昭和28年に刊行された有馬伯爵のエッセイ集。このなかの掌編「井荻村時代」が、問題の該当記事になります。これはもともと東京民友新聞の昭和26年12月21日号に掲載されていたもので、要約すると、

1)いつから杉並に住み始めたか 2)西荻窪という名前をつけた時のいきさつ 3)農園に建つ家の襖に落書きされたものの中から賀川豊彦による詩を紹介します 4)便利になったけど昔の楽しみは失われた。でもいつ迄も住心地よい土地であつて欲しいと思う。

という構成の、3ページほどの随筆です。

2)にあたる部分、そのまま全部引用しますね。(太字は引用者)

 青山に住んでいた私は、新宿から汽車に乗つて荻窪駅に降り、そこから徒歩で来た。日曜の遊び場として、又夏の避暑地として私達一家の楽しい団らんの地であつた。善福寺池から出る小川の水も実にきれいだつたし、小鳥の囁る声も騒々しい位だつた。移り住むまでは農園として花や野菜を作り、テニスコートもあつて、知己友人の集り場所にもなつた。西荻窪の出来るとき、井草という名称になるのを土地の人が嫌つて、何かよい名はないかと相談をうけたので、東中野から思いついて西荻窪ではどうかと私が言うたので、今の西荻窪が出来た。(以下略)

有馬頼寧『花賣爺』 (全国農業出版)276頁

本題からずれますが、これが書かれた昭和26年、「善福寺川」という名称はまだなく「善福寺池から出る小川」として認識されてた、ということもわかります(別の資料では「遅野井流」などと言われることも)。
それはともかく、「井草」駅になるのを土地の人が嫌がって、有馬伯爵に相談しに来たのが「西荻窪」名称誕生のきっかけということがわかりました。やっぱり当初は井草駅で想定されてたんですね。でもなぜそれを土地の人が嫌ったのか。上の方の地図を見ると、村の境界線とはいえ、駅の敷地のほとんどが、旧上荻窪村に属していたわけで、駅近隣の地権者が、駅名が隣村の名前になるのを嫌がったということなのでしょう。もちろん単純にはそれだけでなく、荻窪の「別荘地」というブランドイメージに対して、「井草」には「田舎くさい」イメージがあったのかもしれません。今でもブランドイメージの強い名前のほうが選ばれることって、ありますよね。所在地が練馬区なのに名前が「〇〇〇吉祥寺」のマンションとか。そこで、旧上荻窪村の有力者が、華族である伯爵の名前を利用して根強い「井草駅」推し(おそらくは旧上井草村の有力者たち)を黙らせたのだろう、というのが新たな推測です。当の伯爵は、「東中野から思いついて」という力の抜け具合なのもおもしろいです。

上記の内容は、先日出したばかりの「西荻まち歩きマップ2020」でも、かいつまんで紹介しています。

One Thought to “有馬頼寧『花賣爺』
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  1. […] SNSで流行っているブックカバーチャレンジ、西荻版。前回は有馬頼寧伯爵の『花賣爺』でした。2作目は 坂口安吾『西荻随筆』 です。「西荻」「西荻窪」がタイトルについている作品 […]

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